考察レポートの頁

6    ルソン島にみたまをたずねて

(大草睦子著)
2006.10  大草 仁(神戸市在住)…掲示板への投稿

  上記題名の本(フィリピン戦跡巡拝記録)を先日の第2回大草一族の全国集会の祭、大阪府在住の 大草久夫氏(宮崎県都城出身:小生とは遠戚関係)からお借りして読んでみた。 
 
 涙無くしては読めない戦跡巡拝記録(117頁)である。そのクライマックス部分を久夫氏の了解を得たので一部抜粋して掲載したい。 
 
 先ずこの記録は著書の大草睦子さんが56才の時、昭和43年(1968)に戦跡を巡拝された年に書かれている。既に亡くなられているが存命であれば95才くらいであろうか。
 睦子さんの夫(大草繁光さん)は外科医で昭和19年11月に41才で軍医として3回目の招集であったとのこと。因みに昭和19年当時睦子さんは32才で長女3才(昭和19年12月病死)、次女は生後5ヶ月であったことも記されている。
 一方夫の繁光氏は第23師団第四野戦病院に配属され宮崎、鹿児島、熊本の軍医25名衛生兵約300名で編成されルソン島の山中奥深く派遣され、終戦時は軍医の半数と約200名が犠牲になりその内のお一人らしい。
生き残った軍医の方から終戦後の報告は「大草さんのご遺体は全ての戦没者同様に荼毘に付し丁重に山中に埋葬しましたが、その際小指を形見として切り取り大切に保管していましたが、米軍に武装解除され時に没収されました」との報告があったと記されている。 著者と戦没された夫君の紹介を前置きして、著書の内容紹介は後刻に譲ることにします。 
 
睦子さんが出発前日靖国神社に参拝され、空路羽田からルソン島(フイリッピン)へ向かわれたのは昭和43年3月8日である。
    ー  前段を略して以下直筆  ー
 
 
 
    機上からルソン島を見下ろす 
 

  下界は果てしない雲海で明るい太陽に照らされて、まろやかな雲の起伏が時々薄い七色にぼかされて実に美しかった。「下界を観てください雲が切れました。台湾上空と思われます。間もなくバシー海峡に掛かります。ここで海没された方々のために黙祷をお願いします」のアンウンスに全員、身を乗り出し下界を観れば真っ青な海が展開していた。
 人々は戦時中この海を、魔の海峡、と呼んでいたのである。空と海上、海底からの敵の攻撃の中を偽装した輸送船で渡航された将兵の方々のご苦労、胸中はいかばかりであられたかと、悲惨な情景を脳裏に描いて、ただひたすらにご冥福を祈るばかりであった。途中一部省略して
「いよいよルソン島北部上空です、ここは巡拝予定には在りませんので、ここでの戦没者のために黙祷をお願いします。」とのアナウンスに、私の全身は電気に触れたような衝撃を覚えた。
窓にすり寄って下界を観れば山また山で姿は黒々としているのであった。
深い感動と感激に、ワッーと叫びたい衝撃を感じたのであった。これがルソン島、フィリッピンだ、夫のが戦没した島だ。 
 
当時41才の夫が総員325名の20代、30代の若い軍医、衛生兵と共に2000人に余る傷病兵を谷間のジャングルを踏み分け、山をよじ登り、何回も何回も引き返しては移送し、衛星道具を抱え、更に食べ物も少ない山奥へと米軍に追われ、現地のゲリラに襲われ、ついに傷病兵と共にマラリヤ蚊、のみ、しらみ、下痢に苦しみ殆どの傷病兵と野戦病院の2/3以上の方々が夫と共に爆死、餓死、病死された山である。
見下ろせば1万メートルの上空から制空権を奪われたら最早お終いと言うことがはっきり分かった様な気がした。しばし冥福して戦没された方々の屍を心の中で胸にい抱き、「さぞおつらかったでしょう」とつぶやいて黙祷を捧げたのであった。 
 
 現地時間15時(日本時間16時)約4時間のフライトで無事マニラ国際空港に到着した。既に全員夏服に着替え南方の国、炎熱の地に立って感無量である。吉岡領事様他フィリピン側からの団体のお迎えを戴き、貝殻で作ったレイを首に掛けて戴き歓迎の意を表された。
 一行約100名は派手な色の粗末なバス3代に分乗し、私のバスには現地のご婦人約10名ほどが同乗された。この方達はフィリッピン戦没遺族会の婦人達とのことである。バスは空港から先ずフィリッピン無名戦士の墓へ出発、マニラの市の郊外を左右に揺られ、ブーゲンビリアの花を観ながら無名戦士の慰霊塔前についた。一行は長旅のつかれも見せずバスから降り、そこ近づいた。塔の前には聖火台があり聖火が燃え、それはフィリピン国民の戦没者に対する敬けんな慰霊の真心をあらわし、年中灯されているとのことである。団長と副団長によって大きな花輪が正面の台座に捧げられた。
 ここは外国フィリピンである、そしてこの慰霊塔は心ならずも日本軍が最後にフリピン人を敵として戦わねばならなかった結果戦没されたフィリピン戦士の墓である。日本軍がここえ乗り込んできたが故に植民地の領主である米軍と激戦になり全土を焦土化しフィリピン側になんと甚大な迷惑を掛けてしまったことか、戦後20年を経過したとはいえ、今も尚フィリピン人が日本への憎悪が全て消えてしまっているとは思えない。
 にもかかわらず日本遺族会のフィリピン戦跡巡拝団を受け入れて、心ゆくまで追悼する機会を我々に与えてくださったフィリピンの偉大なるご厚意を、全ての日本人が感謝しなければ成らないのだと改めて肝に銘じて慰霊塔を仰ぎ深々と礼拝したのであった。 
 
 それにしても我々の夫や肉親は時の国是によって、いとしき肉親と離別し、懐かしき祖国を後にした異国に渡り、敵の中に進撃したのである。そして武運つたなく戦没したのであるが、そして今は全ての国民に実情も知らされず忘れ去られているような気がして成らないが、果たしてこれで良いのであろうか
負けたのだから仕方がないと言っても日本の国は立派に復興して存在しているのである。果たして戦没者のことが忘れ去られることが日本国民の将来にとって幸福なのであろうか、勿論先の戦争は全ての日本人を不幸にしたのであって戦没者だけが不幸なのではない。しかし戦没者の身内の者だけが悲しみ泣き濡れて、やがて諦めて老いて死んでいくこれで良いのであろうか 
 
國のため 命ささげし人びとの
     ことを思えば 胸せまりくる 
 
と勝敗を超えて御詠じくださった天皇様のお情けだけに寄りすがってそのみたまを慰める他にすべのない我々遺族の涙は、日本の将来に礎かたき真の平和と繁栄をもたらすことができるのであろうか、紺碧の空と純白の慰霊塔を前に様々な想念が私の胸を去来するのであった。 
 
続いて一行を乗せたバスは隣接する米軍の墓地を訪れた。広大な土地に壮大な墓地であった。
17,777柱の代理石の十字架が純白の慰霊塔を中心に整然と配置されていた。
アメリカがよその國にその偉容を誇って名誉ある戦没者の慰霊塔を建てているのを観た時、わが四十七万七千の戦没将兵の方々のみたまが哀れでならなかった。フィリピンに日本将兵のための墓らしい墓は1つもないのである。我ら一行はただ激戦の地を尋ね山野に向かって慰霊の言葉を述べ追悼してまわるのである。
一行はかって憎みに憎んだ敵である米軍慰霊塔の前に整列して、今は一切の憎しみがアワの様に消え去って哀れさを覚えつつ敬けんなる祈りを捧げたのであった。
戦争とは何と罪深き所業であろうか。「自分の國の戦没者の慰霊のために戦跡巡拝を致すに当たって現地の國の慰霊塔に先ず拝礼をするのは当然の礼儀であります」との副班長のお言葉は人間として何と快い道義的な満足を私たちに与えたことであろう。 
 
 米軍戦没者の慰霊を終えバスは一路宿泊ホテルへ向かった。
ホテルの玄関から椰子の木陰を通して遠くバターン半島に沈む夕日の美しさ壮大さまでが悲しいまでの詩情を沸き立たせるのであった。
戦時中耳なれた激戦地コレヒドール島も遠くかすかに望まれる。夫は何という美しい島に骨をうめたことよ。と、せめてもの慰みであった。過去二回2か年づつ満州に軍医として出征した夫は寒さには懲りていた。ここは炎熱といっても夕方にはいくらか涼しい風が吹き渡る。 
 
「貴方はどこに居られますの?私はここまで貴方をたずねて来ましたのよ、本当に死んでしまわれたのですか?」と夕べの空を見回して小さな声で言ってみた。どっと 涙が溢れてきた。     敵弾の雨降る海をわたりきて なお果てましし命悲しき。
壮美なること世界一と言われるマニラ湾の夕日に呆然と佇んでいたい気持ちであった。 
 
 ホテルでの夕食会には、現地のご夫人3名と吉岡領事ご夫妻,島田栄ご夫妻も出席いただいていた。間もなく食事が一段落するのを見計らって団長が島田氏の通訳でフィリピン側に対して,比島作戦によって我が軍が多大なご迷惑をかけた事に対するお詫びの言葉と戦後のフィリピンの日本に対するご好意並びに今回のご厚情に対して感謝の言葉を述べた後『日本人戦没者のための慰霊碑をご当地に建立させて頂く事についてのご理解とご協力を願いたい』むねの要望をされたのには,さすがの私も厚かましすぎるのではないかと内心ひやりとするものがあった。
 団長の話が終わるとフィリピン側の婦人が吉岡領事に促されて挨拶に立たれた,このかたは50歳前後であろうか,フィリピン遺族会副会長のラモール婦人とのこと『戦争は政府と政府がした事であって,戦った将兵には罪はない,まして戦没者には自他ともに気の毒である.今は昔の恨みも忘れて互いに友情としての友好を希求してやまない、したがって日本側の戦没者慰霊碑建設に対しては出来る限りの協力をしたい」と述べられ、
次に挨拶に立たれたバッハ夫人は4年前に日本を訪問した際皇太子ご夫妻の厚いおもてなしを深く感謝し,忘れられない想いでである事を述べられ,「日本人戦没者慰霊碑の建設については,遺族会による建設ではなく,日本国民の総意による日本政府による建設出なければならない』と結ばれた。このご発言には我々一同深い感銘を覚えたのであるが,日本遺族会本部としても非常な関心を持たれたようである。 
 
晩餐会が散会となったのは午後8時過ぎであった。
マニラ防衛戦はフィリピンにおける戦闘の一こまに過ぎないが、岩淵防衛司令官以下の玉すいと市街戦は、マニラの港湾施設と蓄積された軍需品の米軍利用を妨害するため死守を続けた防衛戦であるが、その大惨状は厚生省が作成した戦況資料に詳しくでている。
 フィリピンにおける戦闘は終局的に日本が勝利しておれば、泥水をすすり、草を食むでの抗戦もまた各地各島における玉粋も全て名誉を持って迎えられたであろうが、国が破れた以上戦争の犠牲者が顧みられないのもし方のないことであろうか
 僅か10ヶ月の間にフィリピン地域だけで50万人近い尊い命が失われ、日本軍の1/4しか残存しなかったことは,この戦闘が文字通り死闘であったことを物語るものであるが、その戦闘がかくも困難を極めた理由,特質を見てみたい。
 フィリピンにおける戦闘の特質(厚生省引き揚げ援護局編:比島方面作戦経過の概要より)
戦闘の概要について別に詳しく掲載されていますが、上記表題についてのみ下記に転記します。
 1、現地住民は終始反日,抗日的であった。
 2、比島作戦は終始制空権のない戦闘であった。
 3、日本軍の戦闘体勢はきわめて不備であった。
 4、山岳地帯の戦闘で食料自給が著しく困難であった。
 5、病.餓死による損耗が多大であった。 
 
 作戦の全期間を通じ病餓死による損耗は戦死、戦傷死による死者を上回ったとみられる。すなわち食糧不足による栄養失調患者が多発し、加えてマラリヤ、赤痢等が多発したが、作戦準備不足で薬物も殆ど入手できず病餓死者が著しかった様である。 
 
 このようにして殉国の軍人軍属など約50万人が異境に屍を晒し草むす屍となっていることを思うと胸は張り裂けるばかりである。私にしてみれば初めて知った戦争の様相は驚き以外の何者でもなかった。数多き英霊を弔うため、この地に無名戦士の墓か碑が建立されることを願ってやまない。
 これでは死者の霊はいよいよ浮かばれない。あまりにも哀れである。私はそれを確かめてご英霊を慰めて全ての遺族にお伝えしなければならない。 
 

つづく    
 
 
 
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