考察レポートの頁

5    県別大草氏家紋

2005. 6  大草 仁(神戸市在住)…掲示板への投稿

◆ 北海道〜関東まで(千鹿野繁著より) ◆

  250万世帯の調査と言っても全国の世帯数3,700万?の1割未満だし、実際大変な作業であることは想像できる。おそらく各県総なめにするため県別に1,2番の規模の墓地が調査対象ではなかろうか?明確ではない。
よって実際大草氏が在住している県でも抽出されていない県があり、大草氏記載の無い県は北から全て除外している。(  )内は出自

・山形県:丸に違い鷹の羽(藤原氏族)・栃木県:丸に蔦(つた)(藤原氏族)
・埼玉県:轡(三河清和源氏小笠原氏族)
・東京都:轡(三河清和源氏小笠原氏族)、丸に違い鷹の羽(三河藤原氏族)、丸に五三鬼桐(三河藤原氏族)
・千葉県:丸に五七の桐(三河藤原氏族)・神奈川県:丸に三階菱(清和源氏小笠原氏族)
・山梨県:丸に違い鷹の羽(藤原氏族)

◆ 東海、北陸地方〜近畿まで ◆

・静岡県:丸に抱き柏(藤原氏族)
・愛知県:大草庵(庵に三階菱のこと、別本には東京青山霊園にもあるとのこと)(三河清和源氏小笠原氏族)、丸に五三の桐(三河藤原氏族)、丸に抱き柏(藤原氏族)
・岐阜県:丸に五三の桐(三河藤原氏)、轡(三河清和源氏小笠原氏族)
・福井県:三つ繋ぎ轡(三河藤原氏族)
・滋賀県:丸に五七の桐(清和源氏小笠原氏族)
・京都府:丸に木瓜(三河藤原氏族)三つ捻り轡(三河藤原氏族)
・奈良県:丸に五七の桐(三河藤原氏族)
  私見:大草庵の家紋の出生について、徳川将軍家重時代の1750年代(宝暦)に旗本であった大草伊織(寛政重修諸家譜339頁中段の別名高方)が自分の名前の伊織の語呂合わせで庵紋に変更した可能性があるように思われる。
  伊織の3代前の曾祖父、寛政重修諸家譜339頁上段記載の高忠(弥五郎)1681年代(天和時代)の家紋を大武鑑で調べると琴柱に三階菱になっており、70年後の伊織の時代になって自分の名に語呂合わせして琴柱を庵に変更したとの推察です。そうなると以外と新しい家紋のようです。
これまで、各県の大草家家紋を見てきましたが、三階菱が使われた家紋は小笠原氏族にほぼ間違いないようです。

◆ 中国、九州地方  ◆

  四国と広島県、佐賀県は掲載ありませんでした。これも冒頭紹介したとうり各県広く浅く踏査されているためだと思います。

・島根県と鳥取県:丸に鬼蔦(つた)(石見・御神本氏族)・山口県:丸に揚げ羽蝶(藤原氏族)
・福岡県:丸に轡(清和源氏小笠原氏族)・鹿児島県:丸に三階菱(清和源氏小笠原氏族)
・宮崎県:琴柱に松皮菱(三河藤原氏族)。
 以上が千鹿野 繁著の都道府県別姓氏家紋大辞典からの大草氏の抽出です。

*以上の出自で唯一違うのは島根、鳥取の石見御神本氏族のみですが、6/15の調査報告の益田氏流大草家の記述を補足すると、時代の新しい方から大草永春(1559年益田藤兼に討たれる)ー大草兼利(益田氏として最初に大草を名乗る)ー数代遡り益田兼高(1192年頃益田氏を名乗る)−御神本氏時代ー藤原氏時代となる。
  一番時代の新しい大草永春は宗家の益田藤兼に滅ぼされる時には3人の男子があり、長男新左衛門は仏門へ、残りの2人は以後不明(美都町史)(大草貫治氏説)とのことであり、ここに益田氏より大草氏を名乗った家系は武士として絶えたのでは無いかと思われる。

  よって後年毛利藩に仕えた大草氏は阿波徳島から石見に移住した小笠原氏に従ってきた大草氏が居てその末裔か、同じ大草氏が小早川氏と姻戚関係を結んで小早川流の大草氏として毛利に仕えたのではないかと思える。
しかし益田氏は毛利家では重臣でありどの時代かに、かって姻戚関係にあった大草氏を取り立ててくれたことも考えられる。その事が益田氏流の大草氏が連綿と続き毛利家に江戸末期まで長州藩の大草氏と誤認伝承されているのではないだろうか

何れにしろ石見御神本支流の大草氏も遡れば藤原氏であり、また阿波徳島の流れの大草氏の可能性もあり根は藤原氏流の大草氏につながっており、以上で日本全国の大草さんは同根であると断定できるのではないでしょうか

 
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