考察レポートの頁

4    琴柱に三階菱の発生の謎?

2004. 6. 6  「大草家の家紋」への登録    淳一氏  ←  めぐむ氏

投稿者:大草 淳一(東京都)
  西宮にある先祖の刀(実物)の紋も、菱が下に行く程大きくなっています。本家は千葉にあると言われていますが詳細は分かりません。
  亡父の実家(大阪府豊中市)で家系図を見たことがありますが、一番最初に清和天皇が書かれていました。
  また、書籍によると「清和源氏小笠原氏流」というのがあるらしく(三河の流れ、『「小笠原の支流で、小笠原政季の二男信長、大草に居住せしより家號とす」 …家紋轡十文字、五七の桐、また中興系図に「大草、源、紋コトジノ内松皮ビシ菴菱」…信濃にも現存す』とあります。(出典不明)

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投稿者:大草 めぐむ(神戸市在住)…掲示板への投稿: 6月 6日
  東京の淳一さんより、実家の刀で「琴柱に三階菱」の家紋が確認できたとの投稿があり、お手数をお掛けしました。この場を借りてお礼申し上げます。
  私の方は「琴柱に松皮菱」の家紋の付いた刀の鍔を所持しており、この似通った2つの家紋の謎が気になります。
  淳一氏さんは、登録名簿のコメントで、大祖父が小笠原家の江戸屋敷で誕生したとの系図があると、書かれていたので、これに対し、私は小笠原家から大草家へ嫁に来て実家の小笠原家に帰って出産した子が大祖父ではないかと推察しましたが、今回その姻戚関係が更に昔にあったことが裏付けられた様な気がします
実は小笠原家の家紋を調べたら単なる「三階菱」なのです。両家が何かの事情で姻戚関係を結ぶ際に、家紋も大草氏の琴柱と小笠原氏の三階菱を上手く組み合わせて「琴柱に三階菱」の家紋を新たに作成したものと思われます。松皮菱と三階菱とは非常に似ていますから、三階菱を松皮菱の上に上書きしたのでしょう。なかなかのアイデアです。
 
  さて、姻戚関係を結んだ両家のお家の事情ですが、結論から言えば、大草氏の生き残り作戦だったと思います。
大草氏は清和源氏の正当派である足利氏に仕えるようになって、藤原支流と言うことと、その一族は足利尊氏と対立した南朝の後醍醐天皇方に付いている者もおり、領地も没収され、発言力も次第に衰え、存亡の危機にあったのでは無いでしょうか、 そこに願っても無い同じ清和源氏の小笠原氏との姻戚関係作りがあったと思います。 嫡男を廃しても、小笠原氏から娘婿を迎え入れ領地も与え大草氏を継がせ、大草氏の勢力を維持しようとした大草一族の並々ならぬ生き残り作戦があったものと想像できます。
 
  淳一さんの投稿に、実家の家系の最初に清和天皇と書かれていた、と言われています。藤原支流の大草氏が当時単独でこのような系図を書けるとは思われません。清和源氏の小笠原家から婿養子を迎えたから書けたことではないでしょうか?
  これで藤原支流の大草氏の系図に清和源氏の祖とされる清和天皇名が印されている謎が解けるのではないでしょうか?よって小笠原氏との姻戚関係を構築した大草氏は以後「琴柱に三階菱」を家紋としていったものと思われます。それでも清和源氏の足利氏の目は藤原支流には厳しく、領地も大草城も没収されていったのではないかと思われます。
 
  以上で淳一さんの投稿中の「書籍によると・・・」以下の資料記載内容とも整合性がでてくるような気がしますが、如何でしょうか?
また淳一氏の祖先は千葉県とのコメントがありますが、一時どの時代かに小笠原氏が下総を治めた時期があり、その時、姻戚関係にある小笠原氏を頼って下総に行った大草氏があったとしても不思議ではありません。それがご先粗の可能性もありそうですね。先祖代々千葉に居られる大草さんの登場が待たれるところです。
 

 
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