考察レポートの頁

3    旗本・大草弥五郎(3,700石)の子孫かも?

2004. 5. 29  「掲示板」への投稿    淳一氏  ←  めぐむ氏

投稿者:大草 淳一(杉並区在住)
  実家は兵庫県西宮市。亡父(米利)は北海道生まれ、その後大阪府豊中市に。大祖父は小笠原家の江戸屋敷(麻布)で生まれたと謄本に載っているようです。
  家紋は琴柱三階菱です。

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投稿者:大草めぐむ(神戸市在住)
  ご先祖のプロフィール拝見しました、有り難うございます。大祖父が、小笠原家の江戸屋敷で誕生されたと、謄本にあるそうですね、
「姓氏名辞典」によると、小笠原氏も三河の大草氏と関連があると出ていますが、それを裏付ける貴重な史料だと思います。大祖父の誕生以前から、かなり深い親戚関係にあったことが伺えます。
  大祖父の時代は江戸末期と想像出来ますが、当時江戸には旗本で複数の大草氏(禄高300〜3700石)が住んでいます。そこに小笠原氏から大草氏へ嫁入りして、出産のため本家の小笠原宅に帰り、貴方の大祖父を出産したことを、謄本は意味しているような気がします。
その複数の大草旗本でも家紋は、庵の三階菱と琴柱の松皮菱が混在しており、大武鑑という史料に、時代は定かでないですが、貴家の琴柱を家紋にしている旗本に大草弥五郎(3,700石)と言う旗本が出ています。その弥五郎さん子孫が大祖父であり淳一さんかも分かりませんね? 
  我が家の家紋も、淳一さんと同じですが、先祖は1600年の関ヶ原の戦い以前には薩摩の島津藩に奉公しているようですから、今から400年以上前に薩摩に移動する前には、お宅とかなり近い同族の可能性があります?
  余談ですが、史料では小笠原氏は清和源氏の末裔で、家紋は轡(くつわ)に十文字、俗称丸に十の字の様です。平安時代は天皇家の外戚であった藤原氏及びその支流は権力がありましたが、武家が政治の中枢を握ってからは除除に勢力が衰え、足利氏に仕えてからは冷や飯を食わされたのではないでしょうか
  小笠原氏は清和源氏ですから武家時代に逆に頭角を現し、大草氏と違い、今日まで史料に大きく残って居るようです。逆に源氏の系統小笠原氏から嫁を迎えるなどして、関係維持に努めた結果、江戸幕府で旗本としての残ったのかも分かりません。
 
  以上史実4割、推論6割?ですがお許し下さい。
 

 
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