わたしの本棚
a@5

 
作品名;  女の一生 一部・キクの場合 著  者;  遠藤 周作 発行社;  新潮文庫

  長崎の友人にすすめられて読んだ。
  「女の一生」は私の心の故郷である長崎への恩返しのつもりで書いた作品と著者は言っている。長崎、浦上の丘にたたずめば、浦上の切支丹たちが私に書け、書いてくれと叫んでいるような気がした とも。   幕末・明治の切支丹迫害事件を中心に史実に沿いながら、キクという女性の一生を描いたものであるが、私にとって忘れることのできない作品の一つになった。
  キクが産まれ育った馬込村、切支丹清吉の育った中野郷、本原郷などは今、私が勤務している職場(平野町)のあたりで、今にもキクや清吉達が現れるような親近感を覚える。長崎弁も自然にすんなりと耳に入ってくる。
  
  キクが想いを寄せた清吉は、信仰を禁じられていた切支丹だった。
  フランス人プチジャン神父が長崎に着任する時に立ち寄った琉球・那覇で「日本には隠れて基督教を信じている者がいる」との噂をきいた。着任早々必死で彼らを探した。発見するきっかけとなったのが、今も現存する大浦天主堂。「サンタ・マリアの御像はどこ?」と彼らから近づいてきたのだった。
  切支丹ではなかったキクが最後に息絶えたのも大浦天主堂のサンタ・マリア像の前。サンタ・マリア像は今も昔のままだが、観光客達はどこまでこのような歴史を知っているのだろうか。
  
  幕末から明治にかけて、激動の時代。
  幕府の権力の失墜と諸外国の圧力もあって、切支丹達は信仰の自由を要求し始める。しかし、明治政府の中で、神道国家体制を作るためには切支丹の処置やむなしとの意見が強まり、様々な弾圧が科され、棄教しなかった者は萩、津和野、福山の三藩に流刑となった。
  キクは清吉へのひたむきな想いで短い一生を終える。清吉のために体を汚して金を作るが、その金をだまし取った役人、伊藤清左エ門は、後に清吉に許しを乞いながら「聖女ていうもんのこん世におっことばあん女ば通して知ったとばい」「キクの一生ば見たけん、こげん俺でも神父さんのよう言われる愛ていうもんの何かわかったとばい」という言葉を告げる。この言葉に著者の想いがこめられている。                                                              

 
「薩摩おごじょ」へ    「別れてのちの恋歌」へ