{波多三河守}   もどる

岸岳城主波多三河守は嵯峨天皇の皇子源融(トオル)公を始祖とし七代の後孫源新太郎久公を党祖とする 平安後期久公九州に下向し その第二子源二郎持(タモツ)公は波多郷に封を受けて此の地に来り岸岳山麓に舘を構え 郷名により波多氏を名乗る のち岸岳城に拠り子孫相承けて封土を守り経倫に努め波多三河守親(チカシ)公に至る その間時により盛衰をみるも上松浦諸氏の中に在りて一等他を抜きんじ智勇兼備と庶民悦服の仁政を以て上松浦党の首領となり その雄名は鎮西青史に輝く 
文禄元年豊臣秀吉の朝鮮に軍を起こすや三河守親公も命により兵を率いて渡航し転戦する事二年有余文禄三年凱旋するを得たり 然るに戦陣の間あらぬ嫌疑を受け秀吉の不興を被り 上陸も許されず直ちに所領没収身は常陸国筑波山麓に配流となり許さるる事なく遂に彼の地にて去る 遺臣ら此の冷酷非道の処置に憤激し再興を図るも成らず 切歯非墳やる方なく主君への殉死を択ぶ者数知れず深く恨みを今に残す 茲に初代持公より五百有余年十七代に及び此の地に君臨せし波多氏も栄光の歴史を閉ず 
以来ここに四百年定めて菩提寺すら荒廃し霊魂は安らぐを得ず成仏を求めて低迷し時には人に禍を与え人また之を恐る 時に小野妙安尼あり 夙に霊魂尼を頼り夜半夢枕に起ち「我等岸岳の家臣一同怨恨の涙をのみ自刃したる者なれば一式菩提の供養を願う者なり」と 此の事再三に及べば尼も志を決し波多一門の追善供養を発起す 即ち深山幽谷に籠り朝夕波多氏及び家臣一同の供養怠りなく冥福を祈る 而して同志と図り三河守親公を大日如来になぞらえて本尊とし大正十二年二月十二日当寺を創建す 
やがて尼を慕い功徳を求めまた難病苦悩の転除を願い参籠する者数知れず今日の法運の隆昌をみる 
今年茲に開山七十年を迎うるに当たり法安寺世話人一同相図り記念の事業として三河守親公の御影の建立を発起す 御影は相知町某家相伝による公の御影を当寺に寄進されたるものに拠る 茲に波多氏累代並びに悲運の太守波多三河守親公及び悲業の最後を遂げた数多家臣一同の追善供養を営むに当たり精霊欣然として来り受け給い永遠に鎮まりt郷土の繁栄と生民への御加護を垂れ給わんことをこい願う

 平成五年四月十二日
          山ア猛夫謹白

※故山ア猛夫先生 北波多村の郷土歴史家 主な著作「岸岳城盛衰記(上・下巻)」など