考察レポートの頁

11    薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎

2007.1.22〜  大草 仁(神戸市在住)…掲示板に投稿

  この島津藩に仕えた大草一族の末裔で現在このホームページに登録参加しているのは、北九州市在住の満州雄氏、大阪狭山市の久夫足氏、私(仁)ですが、一族の本拠は旧薩摩藩の都城(現在の宮崎県)、そう、今回宮崎県の知事に当選した そのまんま東氏の出身地都城市です。
  現在都城市の島津家史料館には家臣の系図が残されており、その大草家の系図の書き出しには「何某代より御家に参り御奉公仕り候や相知れず」と記されています。何某代とは大草家のことか、島津家のことか分りませんが、要はいつ頃から島津家に仕えたのか不明ということであろう。
 
  それに続いて、大草宮内左衛門という人が「慶長5年(1600年)9月15日に関が原の乱の節戦死仕り候」と書かれ、江戸末期までの系図が残されています。
  そして三河で発祥した大草家の家紋(琴柱に松皮菱)が付いた刀の鍔を今でも私が所持しており、どのようにして、どのような理由で愛知三河の大草氏が関門海峡を越えてはるばる九州の果ての薩摩島津藩に来たのか、この謎が今回のテーマです。
 
  愛知三河の大草氏がはるばる九州の果ての薩摩島津藩にどのような縁があって仕えたのか?
 
  この理由は歴史上で大草氏と島津氏の出会の機会があったかどうかにも依ると思い、当初それは、 1335年に京都で足利尊氏が後醍醐天皇側の軍に破れ、一時九州に逃れた際に足利尊氏の奉公衆である大草氏も当然尊氏と一緒に九州に逃れたのではないかと想像されます。
  そして後日尊氏が源頼朝の鎌倉幕府時代からの源氏恩顧の九州地方の守護だった島津氏、大友氏、少弐氏の援軍を率いて東上して、湊川の戦いで勝利を収める戦は「湊川の戦い」としてあまりにも有名です。
  この時の九州から湊川に東上する期間に大草氏と島津氏の出会いの機会があったものと推定し、それが縁と成り、後日足利尊氏の死後、大草氏は尊氏から還付されていた大草郷を足利一族の仁木氏の守護代西郷氏に没収された際に、大草氏の誰かが島津氏を頼って九州の薩摩の国まで落ち延びたのではないかと想像していましたが、今回その状況証拠よりも信憑性のある状況証拠が見当たりましたので次回に新説を紹介したいと思います。
 
  さて、三河の大草家が薩摩の島津藩に仕えた理由のより確かな新状況証拠ですが、これは喜連川大草家の三河出自の状況証拠を調べている最中に見つけたものです。それは、このホームページに「大草家のリンク集」というファイルに「福井県史:中世」という小ファイルがあります。ここに「若狭の奉公衆大草氏」と言う解説記事があり、その中の上から5行目に、越前島津家文書と書かれ、それに「大くさ持継」という人が記載されています。
 
  島津家と言えば薩摩の島津家とばかり思っていましたが、添付のURL を調べると越前の島津家は薩摩島津家の分家になるようです。そうすると越前に大草氏が居たことは上記の「若狭の奉公衆大草氏」であきらかであり、そのうえ「大持継」という名が越前島津家文書に掲載されていることは、鹿児島に移住する前に大草家は越前島津家と何らかの関係が在ったと思われます。
 
  福井県史の大草氏に関するページでは、その1行目に「1336年、越前の南朝(後醍醐天皇)方の勢力に対した北朝(足利)方の人物として大草伊豆守が見える」と記されている。1336年といえば、1348年の四条畷の戦いで大草公経(きんつね)が戦死する12年前のことであり、その頃には三河だけでなく若狭にまで大草一族は在住していたようである。
 
  一方別な越前島津氏の史料では初代薩摩島津忠久が鎌倉幕府により越前の守護職にも任ぜられたのは1221年で、その時初代忠久は2男の忠綱を越前に配したが、1279年には忠綱の子忠行は播磨の国(兵庫県)に地頭職で国替えされ、越前での島津氏時代は58年間のようである。
 
  そうすると福井県史に登場する大草伊豆守は1336年であり、越前島津氏時代は1221〜1279年であり、大草伊豆守より65年前の大草の祖先が越前島津氏に仕え島津と一緒に播磨の国に移動した大草氏がいた可能性が発生する。
 
  ここで越前島津と大草氏の話から横にそれますが、前スレッドで島津忠綱が越前の守護になったのは1221年と史料にあり、さらに以前喜連川藩大草氏のスレッドで、足利家(義氏)が最初に三河の守護で関東から進出したのも1221年と史料にある。
  1221年といえば朝廷側(後鳥羽上皇)と武家側(北條一族)との天下分け目の争い(承久の乱)の年であり、北條政子の鎌倉幕府恩顧の御家人への大演説で武士はことごとく北條側に付き武家側の大勝利で終結しており、乱後、鎌倉幕府の2代目執権北條義時は承久の乱の論考行賞で朝廷側から没収した地域に守護、地頭を再配置したのではないかと思われる。
 
  このように見てくると、三河で大草氏が没落し、足利家の軍門に下らざるを得なかった直接原因は 1221年の承久の乱との推論が自ずと発生してくる。そうすると三河地方での大草氏の隆盛時代は1192年に源 頼朝が鎌倉幕府を開設する以前の平安時代の可能性が出てきそうである。この問題はスレッド題名と違うので後日に譲ることにする。
 
  さて大草氏の出自は本来藤原氏支流とされ、元々朝廷側の武家のはずであり、承久の乱で後鳥羽上皇側の朝廷側につき敗れた結果、その後三河を治めた足利氏や越前若狭を治めた島津家の軍門にくだり1326年に鎌倉幕府の北條執権が倒され、やがて足利尊氏と後醍醐天皇が対立する南北朝時代には全国の大草家は足利尊氏側の北朝につく大草家と後醍醐天皇側の南朝に付く大草家に分かれてゆくようです。
 
  さて、横道にそれましたので元に戻します。
 
  1221年の承久の乱の論考行賞で越前の守護職も手中にした薩摩の島津忠綱の統治期間は1278年までの僅か57年間である。しかし福井県史【若狭の奉公衆:大草氏】を観ると1278年以降島津氏が播磨(兵庫県)に国替えになった後にも大草氏は越前にも存在した記録がある。
  このことは越前の大草氏は一部が越前に残り、一部が島津氏に従い播磨に行ったのではないかと思われる。三河の大草氏も一部が三河に残り一部が地方に散ったようである。
 
  それにしても本来朝廷側の大草氏は承久の乱で領地は足利、島津に没収されたとしても命が奪われていないことが不思議である。このことは恐らく承久の乱では積極的に朝廷(後鳥羽上皇側)に加担しなかったのでないだろうか?
 
  余談ですが、事実承久の乱のおり朝廷に仕えていた西園寺公経(きんつね)(1171〜1244)は後鳥羽上皇の鎌倉幕府倒幕計画を諌め、聞き入れられずに逆に幽閉され,その間密使を鎌倉幕府北條義時に送り、朝廷の不穏な倒幕計画を伝えたといわれ、そのため承久の乱後は鎌倉北條氏と緊密に成り、娘婿の藤原頼経を執権北条泰時の鎌倉将軍として送り込み、その後は朝廷でも絶大な権力を握って最高位の太政大臣となっている。その後一定期間は朝廷では藤原氏でも摂関家でない西園寺家が勢力を伸ばしている。
  そして西園寺家には名前に「公」と名の付く人が多い、一方徳川寛政時代(1789年頃)に作られた系図集(寛政重修諸家譜)の大草氏系図では、小笠原氏支流でない大草氏(藤原氏支流)には同じく「公」と名の付く侍が多く掲載されており、どうも大草氏は藤原氏でも西園寺家の流れではないかと勝手に推測しているところである。次回では越前から播磨に国替えになった島津家からそれに仕えた大草氏を推察することにします。
 
  越前島津氏が越前から播磨へ国替えになったのは、H.P「風雲戦国史」の【播磨島津氏】によれば1279年であり以後1575年までの 296年間播磨に存続したようである。
  この国替えによる島津氏の移動で越前大草一族の誰かが同じく播磨に移動したことも十分考えられる。そして越前島津氏も南北朝の戦いでは足利尊氏に仕えており、薩摩の島津氏も同様に尊氏に味方しており、この足利尊氏軍側の島津軍の中に大草氏がいたことは太平記記載の1348年の四条畷の戦いで戦死した大草公経(きんつね)が記載されていることから想像できます。
 
  よってこれらの南北朝の戦以前に三河から越前に行った大草氏が1221年の承久の乱の論考行賞で薩摩から越前を与えれた島津氏の軍門に下った確率は高く、その大草氏が現在の宮崎県都城市(旧薩摩藩)の大草氏の祖先ではないかと以前よりはより確かに推定しているところです。
  一方播磨島津家に従っていた大草氏が居るとすれば、中国地方の大草氏との関連も否定できなくなります、これについての推論は別に原稿を起こします。
 

 
 
 
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