考察レポートの頁

10    大草家  概論

2007.1.16  大草 仁(神戸市在住)…掲示板の研人君の質問に答えて

  研人さん,初めまして?、それとも以前登場されたことがありましたか?
現在高校生でしょうか、若い人に大草氏のルーツに興味を持っていただき、嬉しく思います。
 
  大草氏は史跡(大草城址等)や無形文化(大草庖刀式や武家料理書)遺産はありますが、それらがいつ誰によって作られたのかの史料が少なく、まだまだ謎がたくさんあります。今後とも興味を持ち続けてください。
 
  ところでお問い合わせの件「私の先祖様は誰なんですか」は、結論は史料がなく分りません。 特に大草氏を誰がいつ、どこで名乗ったのか全く分りません。ただ血統からいえば大草氏は藤原氏支流とされていますから、藤原一族の誰かが大草氏を名乗ったと推測されます。
  その藤原氏の始祖は中臣鎌足(後の藤原鎌足)とされ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を助けて平城京(奈良)の大極殿で蘇我入鹿を倒し、大化の改新(645年)に寄与した人です。だから血統から観れば貴方も大草一族の祖先は藤原鎌足ということになります。
 
  藤原氏は平安時代に一番隆盛を極め当時の皇太子にことごとく娘を嫁がせ天皇の后にして行き摂政・関白の権力をほしいままにしましたことは歴史で学ばれたと思います。
  大草氏は藤原氏支流で、その藤原氏の始祖は藤原鎌足と記述しましたが、これまでこのホームページに投稿された大草さんの家系図には大草家の祖先を藤原鎌足と書かれた系図と清和天皇と書かれた系図があったと記憶しています。
 
  果たしてどちらが正解でしょうか?私は血統で見た場合は藤原鎌足を祖先とする系図が正しいとおもいますが、姻戚関係で見た場合は清和天皇を祖先とする系図も間違いではないと思います。
 
  理由は清和天皇を祖先とする系図の根拠は大草氏は三河時代(1300年代?)に小笠原家と姻戚関係を結び、徳川幕府時代の旗本大草家では江戸末期まで小笠原家から嫁を取り、連綿と姻戚関係が続いています。このことは現在東京在住の淳一氏の大祖父が江戸麻布の小笠原家で誕生したといわれていることからも明らかです。その小笠原氏は清和天皇を祖先とする清和源氏の一族です。
 
  この永い大草家と小笠原家の姻戚関係の中で小笠原家から嫁ではなく、婿養子を迎えた大草家があったことは十分予測されます。その大草家の当主が自分の氏族(小笠原家)の祖先(清和天皇)に大草家を接木してできたのが、清和天皇を祖先とする系図ではないかと思われます。
 
  それでは小笠原家から婿養子に来た分際で、なぜ大草家を清和天皇を祖先とする系図にしたのか?これも推測ですが、当時権力を握っていた足利家も清和天皇を祖先とする清和源氏の一族だったためにその方が生きるためには得策と判断したのではないかと思います。そのために足利幕府の奉公衆(旗本)になれたのかも分りません。
 
  しかし同じ清和源氏でも足利氏を源氏の本流とすれば小笠原氏は源氏の支流であり、更に大草氏の基は藤原氏であり、途中から小笠原氏が清和源氏系にしたことは足利一族一派にはみえみえであったものと想像されます。足利時代には小笠原氏ですら同じ清和源氏でありながら優遇されたポストには就けず、阿波(徳島)の守護になった小笠原氏は1年足らずで足利一族の細川家に代わられています。よって大草家は清和源氏足利体制の下では大草城をおわれ、いくら能力があっても奉公衆が精一杯ではなかったのでしょうか。
 
  最後に家紋の変遷の話ですが、小笠原家から大草家に婿養子に来た大草家の当主が祖先の系図を清和天皇に変更するのと同じように、基の大草家の家紋(琴柱に松皮菱)から松皮菱を取り外し琴柱の中に小笠原家の家紋(三階菱)をそっくりはめ込み、小笠原支流の大草家の新たな家紋(琴柱に三階菱)の家紋に変更したのではないかと推察しています。
 
  それにしろ松皮菱と三階菱はよく似ており全く違和感がありません。まるで大草家と小笠原家は先に家紋を見比べて姻戚関係を結んだようにもおもわれます。このことはホームページの冒頭に掲載された家紋でも確認できます。
 

 
 
 
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