考察レポートの頁

9    足利氏と大草氏の関係

2007.1.3〜15  大草 仁(神戸市在住)…掲示板への投稿

   昨日京都市北区にある足利家の菩提寺等持院に参拝してきました。ここは尊氏のお墓があり、歴代足利将軍の木造が安置されていることでも有名です。庭園は夢窓国師の作といわれています。
訪問目的は大草氏がある時期〔1300年頃〕三河で足利家の配下に組み込まれたとのいわれと因縁があり一度訪問してみたいと思っていたためです。
 
  ところで昨年11月23日に栃木県在住の大草 尚氏より栃木県喜連川の大草氏のご先祖のルーツの紹介投稿があり、徳川幕府の喜連川藩〔藩主:足利氏〕に連綿と江戸末期まで仕えていた大草氏が在ったことが明らかになりました。 
このことは三河で大草氏が足利氏の2番奉公集〔旗本〕として仕え、また大草公経(きんつね)が1348年の四条畷の戦いで戦死〔太平記記載〕し、その子孫が大草領を尊氏に還付されたとの史実以来、連綿と足利氏に仕えた大草氏が存在したことを意味し驚きでした。 
 
そこで尚氏の説明やその他の史料でも喜連川藩足利氏の再興は豊臣秀吉の肝いりでなされたようであり、そのときに大草氏も喜連川足利氏仕えた様ですが、その時期は1585年〔秀吉関白に就任〕以降と推察されます。
ここで新たな問題は喜連川藩の大草家の出自と足利幕府が滅亡して織田信長が天下を採り、秀吉の時代に喜連川足利家が再興される迄、大草家はどこでどのように忍従生活をしていたのでしょうか
次回以降その辺りを手探りで仮説して見たいと思います。
 
本論の前に豊臣秀吉と徳川家康の喜連川での足利家の再興を推測してみますと、
秀吉の場合、天下統一のためには東国に味方となる武将(家)を一つでも増やしておきたいのが本音があったのではないでしょうか、ましてそれが由緒ある足利一族であればお家を再興しておけばいつ錦の御旗に足利家を利用できるときが来るやも知れぬとの打算があったとしても不思議ではない様に思われます。
 
  一方家康は三河の豪族松平家の出自であり、家康と言えどもこの先天下に君臨するには、家柄に劣等感と引け目を持っていたと言われ、松平姓を徳川姓に改姓したのもそのためと言われています。しかも徳川と言う姓は源氏の正統で子孫が絶えた得川氏(新田義貞の祖先の系統)からとって命名して、以後徳川家康は自分の出自を源氏と捏造して称していたようです。
  そのような関係から名実ともに源氏の正統である足利家を大事にして、わずか5000石ながら藩として処遇し一国一城を与えていたのではないでしょうか、普通藩を任される場合は1万石以上でそれ以下は直参旗本か奉公人のようですが、5千石で藩を任されるのはやはり源氏の正統であったために破格の扱いにしたようです。
  しかしそれ以上に加増しなかった理由は弱体化したとはいえ、かっての室町幕府の将軍家の末裔の家柄であり、いつ誰が足利家を担いで反徳川勢力を形成するやも知れないとの家康の深謀遠慮が末代まであったのではないかと推察されます。
 
喜連川藩の史料では、喜連川藩は参勤交代を免れていたようです。参勤交代の目的は徳川幕府が藩の財政を適当に削いで藩に力をつけさせないようにし,かつ人質を江戸に置かせ藩に謀反を起こさせないようにする目的もあったと言われていますが、喜連川藩足利家だけはどうして参勤交代を免れたのでしょうか?
 
財政に余裕のない5000石の小藩説、室町幕府の将軍家で特別優遇説もあるようですが、 私説は終生5000石に据え置いた目的と同じく、室町幕府の将軍家の末裔に対する徳川幕府の警戒感から、参勤交代の大名行列を足利家にさせることは、旧将軍家の諸国と民衆へのPRデモ行進となり、武家・武士の本流である源氏再興の願望を醸成しかねないとの危惧と警戒があったためではないかと思います。
 
さて足利喜連川藩に仕えた大草家はどこから来たのでしょうか?これが当スレッドの本論ですが前置きが長くなりました。喜連川大草家の尚氏は昨年11月23日の投稿文で大草家は足利喜連川藩の創立から仕えて来たといわれ現在足利家、大草家とも18代目とのことで、それ以前は不明であると11月18日のメールリンクでは述べておられます。
喜連川足利家が豊臣秀吉により再興許可されるまでは、どこで足利家に大草家が仕え始めたのか、このホームページは大草氏のルーツ探索も目的の1つになっていますので、尚氏、康弘氏を置いて推測するのは僭越ですがお許しいただきたいと思います。
 
足利家は源氏の名門で始祖は源 義家の3男源 義国が現在の下野国足利荘(現在の栃木県)を領有し子孫が初代足利義康姓を名乗って足利家の始祖となったようです。一方の大草氏は同じく関東武士で同じ下野の出自かといえば、全くその状況証拠は小生の浅学では見当たりません。
よって大草家と足利家の最初の出会いの場は荒っぽい推測ですが下野(栃木県)を含めた関東ではなさそうです。そして鎌倉北條執権時代に3代目足利義氏(尊氏の5代前)が北條泰時の娘婿となり、1221年に三河の守護職に任ぜられ、以後足利家は8代目尊氏時代を経て三河尾張地域で勢力を拡張しこの地域ほぼ足利一族で固めて行くようです。
 
ここで三河尾張地区に大草城址や大草神社や大草という地名が存在することを忘れるわけにはいきません。そこで1221年に足利義氏が最初に三河に守護職で赴任して以来、足利尊氏の代に隆盛を極め、大草氏も足利家に仕えてから後の時代に、はたして大草氏が三河で城を造り大草という地名を残せただろうかと言えば、ノーと言わざるを得ません。
と言うことは大草氏は足利氏が三河に進出する1221年以前に三河尾張地域で城を持ち、広大な土地を所有していたと推測できます。よって大草氏と足利氏の最初の出会いの場所は大草の領有する三河に足利家が守護職で赴任する1221年頃であったことが推測できます。
 
前スレッドで述べた、大草氏は足利氏が1221年に三河に進出する以前に三河に在住していたことは、本氏家伝という書に「尊氏より三河大草郷を還付の教書を賜う」との記述があるらしく「 」内で還付と書かれていることからも、かって大草氏が支配していた大草郷を足利氏が召し上げていたことをうかがわせる史実からも裏付けされると思う。
 
さて喜連川大草家が仕えた、喜連川足利家の先祖は鎌倉公方である。鎌倉公方とは京都の室町幕府の関東支店のような位置ずけで、初代の鎌倉公方は足利尊氏の3男基氏である。
既にこのころは三河の大草氏は足利氏の軍門に下り尊氏の時代には足利氏の奉公衆(徳川幕府の旗本に相当)になリ下がっており、鎌倉公方が置かれた際に三河から足利基氏に従い鎌倉に行った大草氏がいたのではないかと思われる。
 
或いは1221年の三河に最初に守護で来た足利義氏、2代目の守護である泰氏も代替わりには三河から足利へ帰省しており、そのような移動の際に奉公衆の大草氏も足利に随行した可能性もある。そのような大草氏が喜連川藩創立で足利家が復興した際に仕えた可能性もある。
 
以上のように見てくると何れにしろ喜連川大草家のルーツは三河の可能性が大であり、その三河に1221年に足利家が守護職で進出して来た時に従わざるを得ない状態になり、それが縁で三河大草氏の一部が連綿と江戸末期まで喜連川足利家に仕えた喜連川大草家であり尚氏、康弘氏のご先祖ということである。以上荒っぽい推測と仮説ですが、これををたたき台にしてより真実に近い仮説が発見できることを願っております。
 
次回は喜連川大草家のルーツを調べている最中に、薩摩の島津家に仕えた我が大草家がどのような理由があって九州最南端まで来たのか、これまでの仮説を否定できる新発見があったので、それを書き込みます。
 

 
 
 
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