考察レポートの頁

7    喜連川足利家と当家

2006.11  大草 尚(栃木県さくら市在住)…掲示板への投稿

  はじめまして栃木県さくら市喜連川在住です。私は十八代目の53歳。 当家は喜連川足利家とともに歩んできました。足利家と喜連川のかかわりと当家の近代史を紹介します。
 
<足利家と喜連川>
 
 鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は延元三年(1338)征夷大将軍となり、室町幕府を開く。
尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東を特に重視し、その子基氏を鎌倉公方として鎌倉の置き、東国の政治を行わせた。しかし、永亨十年(1438)、将軍の権力の強化をねらった六代将軍義教によって鎌倉公方持氏は滅ぼされる。
  その後、持氏の子成氏が鎌倉に下って鎌倉公方を復活させるが、成氏も上杉氏と対立するようになり鎌倉を追われ古河(埼玉県古河市)に逃れ、ここを本拠として古河公方となる。しかし、五代義氏が娘を残して没し、後継がいないまま、古河公方は断絶となる。将軍家は十五代義昭で滅亡する。
  古河公方二代政氏の次男義明は、下総小弓城にあり、小弓公方と称されていた。この娘であり塩谷雅久の妻嶋子は、奥州仕置きのため宇都宮に陣を取る豊臣秀吉を訪ね雅久に二心がなかったことを弁明。その際、古河公方の断絶を聞いた秀吉はそれを惜しみ、嶋子の弟国朝に子が公方の義氏の娘氏女を娶らせ、古河公方を継がせた。古河公方の再興である。
 
  しかし、国朝は文禄の役に出陣の途中、安芸の国で急死する。国朝の弟途頼氏がその跡を継ぎ、喜連川に居館を定めた。足利家の血を引く喜連川氏の統治のはじまりである。
 
  徳川幕府は喜連川足利氏を足利将軍の末裔として特別に扱った。そのため、喜連川氏は外様大名であっても高い格式を誇るとともに、参勤交代、助郷・国役などの諸役が免除されるなどの特権を与えられたと伝えられる。(喜連川歴史資料)
 
<当家の近代史>
 
  当家の家系は足利氏が喜連川を統治した時から始まります。足利氏の家来として古河より従って来たものと思います。喜連川足利氏も現在十八代目であり、当家も同様になります。近代について紹介します。
 
  十三代:久敬。喜連川藩足利家の御典医、漢方医。号は子礼。江戸にて亀田鵬斎や梶次郎に学び帰って藩公に侍し、藩政の任に当たった。御典医の傍ら家塾を開いて弟子を教育した。
 
  十四代:久道。号は鴻堆。江戸両国・薬研堀の磯野底績に漢方を、亀田綾瀬に儒学を、書を幕末の三筆の一人巻菱湖について就学4年。戊辰の役に際し、家老職として重責を担う。明治になり私塾帯経学舎を興し、弟子を教育した。龍光寺の足利家歴代の墓の南側のその功績の内容を縦4m横2mの石に彫った碑があります。
 
  十五代:育太郎。号は雲令。江戸にて皇漢を学び、帯経学舎を発展させた。祖父三代にわたった90年間の私塾は大正中期に閉塾した。
 
  十六代:寛。医院を開業。昭和21〜26年喜連川町長を務める。
 
  十七代:英俊。医院を継承。警察医、学校医、体育協会長などを長年務める。平成2年死去に伴い閉院。
 
  十八代:尚。平成3年、さくら市氏家にて大草レディスクリニック開院。現在に至る。
 
  皆さんの一族の中にこのような家があることをお知らせできること嬉しく思います。  
 

 
 
 
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