折り折りの記
X  2003年5月〜

 

2004年5月16日(日)
天  気;  雨 見出し;  見舞い

  年齢が同じの近所の友人が病に倒れ、医大に見舞いに行った。日頃、頑丈な人だけに余計痛々しかった。
  医療の現場はすすんでいる。病名の告知は当然といった感じで家族の了解もなく本人に行われたそうだ。治療の内容も逐一本人に知らされている。
  この方法で治療を行うとこの副作用がでる、その時はこうすると、知らされた方が確かに治療はやりやすく効果的だろう。友人も気丈に淡々と頑張っていたが、なにもしてやれない回りの家族は(特に奥さんは)つらいだろうなぁと思う。
  お見舞いに生花でもと思って病院の売店にいったが売っていない。生花や花瓶の水からの感染症予防対策で持ち込みが禁じられているのだ。いつからこんなになったのだろう。
  30年前自分が入院したとき、お見舞いにたくさんのお花をいただいて、病室が華やかで、看護婦さんが替わるかわるこの部屋(病室)はきれいだと言ってくれたことを思い出す。自分自身も随分お花になごまされたものだった。
  しかしこれだけいろんなウイールスが出回れば仕方がないことだろう。
  気力で病に立ち向かっている友人、がんばれ。元気になってまた、お酒を飲もうよ!   

 

2004年2月21日(土)
天  気;  晴 見出し;  国境の島、対馬

  2/18〜19 対馬、厳原町を訪れた。3/1からの町村合併による対馬市スタートを控え、厳原町としては最後の訪問であった。
  対馬は本土からは130キロ離れているのに比べ、韓国まではわずか50キロ。
  結構大きい島で、南北走れば80キロ、約2時間かかる。
  飛行機から眺めても島のほとんどが山林(ツシマヤマネコの生息地)大小さまざまな島が浮か゛浅茅(あそう)湾は溺れ谷としては日本一。
  今回は対馬藩、宗家10万石の静かな城下町を巡った。
  印象深かったのは、町のあちこちに残る高い石垣塀を巡らせた武家屋敷跡、居城、金石城跡の櫓門、歴代藩主の墓が並ぶ萬松院。
  特に萬松院の本堂にかかっている「萬松精舎」の額(後水尾天皇第三皇女鏡の宮の書で皇室よりくだされたもの)
三具足(朝鮮国王より寄贈された青銅の花瓶、香炉、燭台)
徳川歴代将軍の位牌(日本国を代表するとして将軍の位牌の前で外交を行わせた)
山門とあうんの像(桃山時代の建造)
130段の階段を登ったところに樹齢1200年の大杉3本がそびえる幽谷の地に、上段に藩主と正夫人、中段に側室、子どもらがまつられていた。出雲の毛利藩の菩提寺に匹敵すると思った。
  
  夜は「志まもと」で新鮮な魚貝をいただき(刺身とあんこう鍋)、地酒は河内酒造の米麦ブレンド焼酎「やまねこ」で満足。   土産は生のアオサ、イカの塩からを買ってきました。   

 

2004年2月11日(水)
天  気;  晴 見出し;  休日

  久しぶりにゆっくりできる休日。朝早く目が覚め、しっかり朝ご飯を作って食べ、布団を干し、洗濯ものを干し、じげもん市場へ出かけ、堀り立ての大根とジャガイモと温州とポンカンを掛け合わせたみかん「はるか」を買ってきた。
  気になっていた沖縄の友人へ、お礼の長与みかんをやっと送って、クリーニングもだした。
  春を写そうとデジカメをもってぶらぶら。蕗の薹を見つけ、ホームページの表紙写真を貼り替える。
  たまっていた手紙の返事を2本書き、、ベランダの金の生る木を大きい鉢へ移しかえもした。
  午後から芥川賞受賞作「蛇にピアス」を読む。20歳の作者のしっかりした文章力にショックを受けるとともに、その内容にとてもついていけない違和感を持った。
  なんと休みらしい休日だったことだろう。でも本当は、仕事を持ち帰っているんだ。その仕事をやりたくないために、いろんな雑事を次から次にやったに過ぎない。あぁあ。とうとう夜になった。どうしてもやらねばならない仕事。今夜は遅くなるかも・・・。   

 

2003年9月4日(木)
天  気;  晴 見出し;  やったぁ 県展入選

  初めて応募した第48回長崎県展に入選したとの通知が届いた。お稽古の時、小倉先生が入選するかもとおっしゃっていたのでひょっとしたらという気持ちがないこともなかったが、まさかと思っていた。嬉しい。認めてもらえて本当に嬉しい。
  有段者でない私は日頃の書道教室で条幅を書くことができないので、条幅の練習のつもりで応募したいと先生に申し出た。あとから聴いた話だが小倉先生はどうなるものかと思ったそうだ。
  私の信条は仕事優先、仕事に障るような趣味であってはいけないと思っている。
  6月から締め切りの8月2日まで夏の間、仕事の合間を縫って制作に取り組んだ。夜しか書く時間がなかったが、夜は折った紙の中心線が見えず苦労した。また、この夏はことのほか暑くて湿気が多く墨が散って大変だったが、約70枚ほど書き込んだ。先生からは100枚書けといわれていたので自慢にはならないが・・・
  出品作品941点中入選者385名。審査員9名。朱 応こくの漢詩「中秋 東阿の城楼に登る」を書いた。(40字)仕上がりは長崎独特の寸法で200cm ×60cm 縦がき。
  先生の評 ・・・書は古典を基盤としつつ、自己表現をする芸術である。表現のあり方としては、線質の強さ、運筆による律動美、空白の処理、文字の形と大小の配合等に配慮しつつ全体を調和させることになる。今年の漢字作品は、こうしたものをクリアしたものが多く、楽しみつつ審査に当たることができたとのことだった。。   

 

2003年7月20日(日)
天  気;  晴 見出し;  生きていてよかったー特急かもめ脱線

  18日、浦上駅21:19発特急かもめ46号の横転脱線事故に遭遇した。
  大寺前局長のお里帰り歓迎会があって、楽しくお酒を飲み、いい気分で浦上駅から白いかもめ号に乗車した。普段は2両目の自由席に乗るのに、この日は何となく指定をとり4両目に乗車したのだった。諫早駅をでて10分ほどたった頃、スピードにのっていた車両が突然何かにぶつかったような衝撃がして、4〜5回急ブレーキがかかり突然減速し、車体が斜めに傾きながら止まった。その間、悲鳴の中、私は前の座席にしっかりつかまり、身をかがめて「止まれ!とまれ!」と祈っていた。
  電気も消え、真っ暗闇の中、なにが起こったのかと目を凝らしてみると、進行方向右手にかもめ号の先頭車両が進行方向と正反対を向いて横転し、左手には2両目が田圃に突っ込んでいた。長崎本線は単線なのでてっきり正面衝突したのかと思った。
  乗員乗客78人中33人が重軽傷。4両目以降の乗客は何ともなかった。あれほどの大事故で死者がでなかったのは奇跡だ。新型車両白いかもめの革張りの座席シートが衝撃を緩和したとか、脱線した田圃、水路が折からの雨で土がぬかるんでおり衝撃を和らげたとか、新型車両の「軽さ」と「強度」も衝撃回避につながったとか新聞に出ていた。
  原因は土手からの落石のようだが、JRの保線管理がこれから問題となるであろう。けが人救助が一段落して、警察、消防 JRの事情聴取が終わって佐賀に帰り着いたのは3時をまわっていた。
  事故直後真っ暗闇の中で夫に事故を知らせたら「あわてず、落ち着いて」といってくれて、とても落ち着いた。また乗車直前、韓国にいる娘に「今から電車に乗る」とメールをうっていたため事故のニュースに気づき「大丈夫?」とメールが届き、これもまた心強かった。今年の運を使い果たしたのかもしれないが、生きていて良かった。   

 

2003年7月11日(金)
天  気;  雨 見出し;  初孫

  尊敬するガバチョさんから初孫誕生の便りが届いた。   私まで嬉しくなってしまう喜びに満ちあふれたお知らせだったので書き留めておく。

        いのちをばむんと掴みて孫生まる
  6月12日、待望の初孫が生まれた。目は閉じているが、小さな拳を”むん”と突き上げている様子がいかにも凛々しい。 小生は、暢気者と呑兵衛ののんを活かして”のん爺”と呼んでもらうことにした。わっはっはっは〜仲良くしようね、佳太!
         腐葉土となるべし爺六十三
  風呂に入れるのが小生に仰せつかったお役目である。昨日は顔にオシッコをひっかけられた。なんたる幸せ!湯の中で悠々たる容姿は西郷どんを彷彿とさせるぞ。貴君が正々堂々たる人生を闊歩するのに何らかのお役に立ちたいと願う昨今である。


  一つの命がまわりを幸せにしてくれる。ガバチョさんよかったですね。おめでとうございます
   うらやましいなぁ・・・   我が家の娘、息子よ  お父さんを早く爺にしてくれぇ   

 

2003年7月3日(木)
天  気;  雨 見出し;  刑法犯認知件数最少なのに

  一昨日、4歳の男の子が両親と買い物にきていて20分親から離れた隙に行方が分からなくなり、翌朝8階建ての立体駐車場から投げ落とされ、殺害されているのを発見された。報道によるとかなりの高さから落とされており、衣服はぎ取られ裸だったとのこと。
  可愛い盛りの子どもをなんと無惨な手口だろう。痛ましい。
  つい最近福岡県で一家4人の親子が殺され、手錠をかけられて海に沈められていた事件があったばかり。サスペンス映画を見るような事件がつい近くで起きる物騒な世の中となった。
  長崎県は、刑法犯認知件数が人口1万人あたり89.0で全国で最も少ない。県民はこのことをとても誇りにしている。ちなみに全国で最も高いのは福岡県で306.3(犯罪統計書)
  長崎は離島が多くて犯罪を起こしたら逃げられないという抑止力ゆえだという人もいるが、穏やかで親切な県民性からさもありなんと私は思っていた。こんな残虐な、猟奇的な事件は長崎では起こるはずがないのに・・・
  

 

2003年5月 25日(日)
天  気;  晴 見出し;  百歳の人間宣言

  「住井すえ 百歳の人間宣言」をみた。   住井すえさん生誕100年を記念して作られた記録映画で、2002年毎日記録映画賞を受賞。いい映画だった。
  住井さんは、小学校3年の時、人間が人間を差別する事はおかしいと気づいたとおっしゃっていたが、以後95歳で亡くなられる間際まで一貫して人間は誰もみんな平等だと主張し続けてこられた。なかでも、憲法第1条、第2条。 現代においては、人間はみんな平等とは思っていても、あんなにはっきりと大きな声で主張できる勇気のある人は少ない。
  55歳から「橋のない川」を書きはじめて第7部は90歳から書かれた。まだ伝えなきゃいけないものがある、100歳まで生きて、本当の人間のありようを教えようとなさった住井さんの声が耳に強く残る。「橋のない川」がなぜ書かれたか?背景がこの映画でよくわかる。   

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