自然と暮らし (自然との共生)  
水車のある町、相知町「町切地区」は、厳木川の「町切堰」から取水した「用水路」にあって、その用水路の延長距離は5キロにも及び周辺(5つの集落)の水田を潤し、再び厳木(きゅうらぎ)川に流れこんでいます。やがて川は松浦川の本流と合流し玄海灘『唐津湾」の海に注いでいる。
[8台]の水車の記録(古文書)については、
西暦1678年「延宝6年」9月23日、「松平乗久」氏が下総国佐倉(現在の千葉県)より唐津藩の城主として着任したとき、大庄屋(馬場組)から提出された届書(指出帳)の控えにその事が記されています。(相知町、図書館所蔵)このことから「8台の水車」と「用水路」は西暦1678年以前に築造されたことになります。

西暦1600年の「関原の合戦」以降唐津藩は、譜代大名として初代藩主「寺澤」氏からはじまり徐々に国の政治が落ち着き、全国各地で「新田開発」が行われた一つに、この地区(町切、楠、田頭、湯屋の村々)の「堰や用水路」も造られ各村の農民(当時「町切村」には35世帯ぐらいが生活)たちも用水路を掘り、土地を耕した「公共事業」?いや
「協働事業」の成果だとおもわれます。しかし川(当時は「東川」と呼ばれていた)と各集落沿いの用水路は、大きく蛇行しながらほぼ並行に流れており、大雨が降ると大川はたちまち氾濫し水田稲作の復旧もままならなかったことから当時は免税措置(砂押し)までありました。
「町切堰」の改修記念碑(明治18年) 「厳木川の大雨による濁流 (流域に水田)

「町切水車」は用水路の築造により自然の恵みを共有して米作りに励んで来ましたが、西暦1649年(慶安2年)2月大久保忠職2代目唐津藩主(播州明石(現在の兵庫県より)の時代に「水車」つくられたもので、現在は地域の住民により『生きる為の知恵として生まれた有力な「みずぐるま」水のエネルギーを利用した無人機)』」の役割と働きを地域の宝として継承(水車’取付研修交流会)し、併せて自然と田園が持つ『多面的機能』の再生と21世紀の「地球環境保全」を目指した環境教育の空間として共に学び、活用したいものです。
「町切水車』の取付の様子 毎年(5月下旬)   黄金色の『稲穂』が実る頃の田園 (9月中旬) 

 
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