ホーム | 議会活動 | 政策・見解 | 唐津民報 | 掲示板 | リンク集 | ご意見・ご要望 |
議員活動日誌
2011年11月2日 玄海原発4号機の再稼動に抗議
玄海原子力発電所の4号機が10月4日緊急停止していたのが、11月1日市民に何の説明もなく突然再稼動することに対し、市議団は11月2日、真部利應社長に対し安全軽視の再稼動に抗議する文書を手渡しました。
2011年5月15日から17日まで唐津市議員団3名で沖縄県宜野湾市など視察
15日から17日まで日本共産党唐津市議団3名で会派視察に行ってきました。牛の石垣市、基地の宜野湾市、沖縄南部戦跡の糸満市の3か所が中心です。15日の日曜日に唐津をでて沖縄県石垣市に入りました日曜日は移動日でしたが石垣空港に着いてすぐ石垣牛のブランド化の取り組みに頑張っている肥育農家と繁殖農家2軒を訪ねました。3枚目の写真は翌日の市役所です。農林水産部畜産課の宮城課長と金嶺係長から説明をうけているところです。「石垣牛」のブランド化はJAおきなわ肥育部会が商標登録をしていること、JAが出しているブランド化の定義は地元で産まれ20ヵ月以上飼育された登録牛・黒毛和種であることなどがあるのですが、偽装が相次いでいると苦情も多く石垣牛の取り扱い店での調査や生産や精肉販売元の確認など指導体制が求められていると言われました。
1島1市の石垣市の人口は48000人、年間約72万の観光客が訪れており、視察日にも台湾からの客船が港に着いていました。石垣畜産は宮崎、鹿児島、北海道に次いで4位と盛んです。島内需要のみでおわるのでなくこれから将来にむけ流通拡大を目指しているために後継者も多く育っているとのことでした。
16日の午後から沖縄本島へ入りました。宜野湾市役所にて普天間基地の説明を受けました。
普天間基地は、沖縄県宜野湾市の約4 分の1を占めています(米軍基地全体だと宜野湾市の約3分の1を占めています)。そして、基地の周辺には学校や病院、ショッピングセンター、幼児保育施設、自治会事務所などが121か所以上もあるという図面をみせてもらいました。米軍のパイロットは学校や文化施設の上空を避けるように飛んでいると説明するそうですが、2004年8月13日午後2時15分頃沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落するという事故が起こりました。ヘリ墜落後に市民の方々の不安が大きくなり今度はいつ落ちるのかと県内移設反対運動の声が大きくなっていったと説明がありました。
2011年4月の基地周辺の航空機騒音発生回数表をみると1日に多い時は100回以上も出ていました。この日は曇っていて視界が悪くいつものように飛んでいないと言われましたが、騒音被害は子どもたちの健康にも影響がでていました。基地の中には地権者の墓もありました。墓参りは市に申請して許可証をもって基地の中に入るそうです。市の中心部にある基地のため、道路交通遮断や下水道敷設などによる経済損失もあることなど住民の立場・目線での説明に納得できるものが多くありました。国はアメリカ側の言い分を聞くのでなく宜野湾市民の声を聞くべきだと思いました。
沖縄本島には約2000の石灰岩で形成された鍾乳洞があり、沖縄の方言で「ガマ」と呼ばれています。私たちは観光地として整備されているガマではなく崖を降りるような足場の悪い洞内に案内されました。写真は真っ暗なガマの中に入ってガイドの方から説明を聞いているところです。懐中電灯を消すと、本当に真っ暗闇です。住民や日本兵の避難の場所になっていたガマで「泣く者は始末する」と日本兵は住民を脅したそうです。赤ん坊の口をふさぎだまらせた説明などを聞くと心が痛みました。
沖縄戦は1945年3月末から7月中頃まで戦闘が続き、およそ20万人の戦没者を出しました。このうち県民の犠牲者は、15万人にものぼると言われています。
沖縄県平和祈念資料館にある展示物の日本兵は住民を守っているようにみえますが、沖縄戦当時にガマの中で娘を失った安里要江さんは、四歳の息子と生後九カ月の娘を抱えていた当時の様子を「日本兵が着剣した銃を持って『子どもを泣かすと殺す』と脅した」と話しています。銃剣は住民に向けられていたというのが生き残った方々の証言で、「実体験を伝える展示を曲げないでほしい」と要望してありました。 米軍から「モウ、戦争ハ終ワリマシタ」ビラをうけとる住民もいなかったといいます。
米国国立公文書館には米軍が撮影した約1000本の沖縄戦関係フィルムがあることが確認されていました。その一部を独自に収集。NHK沖縄放送局も平成20年から2年をかけて米国国立公文書館や東京のNHK放送センターから約600本の沖縄戦関係フィルムを収集しています。その後、フィルムを広く一般市民の閲覧・利用に供するためにと、平成22年12月そのDVD版が正式に寄贈されています。
米国国立公文書館から収集したフィルム524本の中には45本のカラーフィルムがあったそうです。私たちは住民を巻き込んだ激しい戦闘の生の映像をみせて戴きました。「地元の高校生がこのフィルムを見た時には、最初はザワザワと私語も多かったが、映像に自分たちの生まれ育った地域の景色が出てくると静かになり沖縄戦が過去のものでなく自分たちのこととして受け止めることができたようだ」と平和学習の一環として役立っていることを話されました。
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|