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「子どもと教育」(ルック)2005/4  教科書問題を考える

斎藤孝氏『理想の国語教科書』で国語力はどうなるか その1

九州児童言語研究会会長  平井英一

はじめに

 四〇年近く九州の片田舎の小中学校に奉職し、国語教育を中心としたささやかな教育実践に取り組んできた私は、二〇〇〇(平成二)年に退職し今年で一五年目を迎えた元教師である。現在は専ら農業を業とし東京ドーム程の田畑を相手に毎日額に汗しながら自然の中で閑雲野鶴(かんうんやかく)の生活を楽しみつつ、時折りかつて教職にあった頃の教育実践を思い出し、荒廃の一途を辿る憂慮すべき日本の二一世紀の教育へ思いを馳せる毎日を送っている。
 そうした過日、ふと書店の書棚に「理想の国語教科書(文芸春秋社)」というタイトルの一冊の著書を目にした。その魅力的なタイトルに惹かれて本書を求め目を通した。
 ところが驚いたことに、この書は私の期待していた国語教育のイメージとは全く逆の国語教育論であった。読みながら恐怖感すら覚える国語教育への危機感を感じた。もしも、この書のバックボーンとなっている国語教育観が今後の日本の国語教育界に影響を与えるようなことになれば…、それでなくても混迷の度を増しっつある日本の国語教育をますます出口のなり袋小路に誘導する結果を招くと判断し、急ぎ本書のはらむ問題点を指摘させてもらうことにした。

子どもの国語嫌いを加速する!「斎藤メソッド」

 斎藤氏の私塾で実践されている国語指導の基本的な考え方は、子どもたちに名作名文と言われる非常に高度な文学作品を教材として与えることにより、豊かな国語力を育てる事ができるという考え方である。その具体的事例として、中学校二年の教科書教材「走れメロス」を小学校中学年の教材に、また、高等学校の教材である宮沢賢治の「永訣(えいけつ)の朝」を五年生の子どもに読ませた例が報告されている。そして「走れメロス」の実践からは、「この作品のエッセンスは、小学校の子どもにもしっかりと届き、心の奥深く理解された」と記されている。しかしこれは、授業における子どもの反応を斎藤氏が誇大に評価した結果によるもので事実とは異なるものである。しかもその実態は、子どもが文章を読んで理解したのではなく、教師の読み聞かせや解説や説明を聞いてこれに答えたに過ぎない。エッセンスが理解されたとすれば、それは子どもが読みとったのではなく、教師の補説によるものである。なるほど、子どもは総ルビの文章を一度は音読している。しかし、それはルビを伝って文章を音声化しただけのことであって、読んでこの作品内容を理解したのではない。文章を読んで理解するということは、一人ひとりの子どもが文字を辿り、言葉の意味を考えながら内容を把握し、理解することであるが、ここではそうした学習活動を通して子どもが読みとったのではなく、教師の説明によって理解したのであるから、子どもが読んだことにはならない。
 問題は、なぜ総ルビを打った教材を与えなければならないのか、なぜ教師が朗読し、読み聞かせ説明してやらなければならないのか。その理由は明白である。子どもにとって教材となる作品が余りにも高度すぎることにより、総ルビを打たなければ読めず、内容を教師が説明してやらなければ理解することができないからである。にもかかわらず氏は、「走れメロス」の教材を小学校中学年にふさわしい教材だと言っている。矛盾も甚だしい論理である。
 教材設定の決定的条件は何か、現代教育学によって明らかにされているのは「子どもの発達段階」である。一九三〇年言語心理学者ヴィゴツキーは、心理学研究の結果をまとめたその著『精神発達の理論』の中で【教授=学習は、それが発達の直前を進むとき発達の最近接領域に横たわる一連の機能を呼び起こし良い教育となる】と言っている。つまり子どもに与える教材は、子どもの現在の知的発達段階の、子どもが少し背伸びすれば手が届くレベルのものが最適であると言っている。これが子どもと教材のふさわしい関係を明らかにした現代言語教育学の結論である。それ故に、教科書の編集者は教材の選択に当たってこの教材が子どもの発達段階にとって適切であるかどうかに頭を痛めるのである。走れメロスの教材を小学校中学年にふさわしいとする氏の教材観は、こうした現在教育科学が明らかにした科学的根拠を無視したもので、単なる斎藤氏の主観的空想的教材観であって、無謀極まりないものである。氏のこうした主観的勘によって、高度な教材を与えられた子どもたちが得るものは何だろうか。
 現代教育学最高の国語教育学者と言われるK・Dウシンスキーは、一八六〇年その著『初等教育論』の中で、【すべての有機的な発達は一定の時期に行われる。にもかかわらず教師はそれを忘れて子どもの発達よりも先に出ることを要求している。教師はいったい何のために急ぐのか、どうして教師は子どもがそれを理解し得るまで成長するのを待てないのか。今できなくても半年もすれば容易に理解できることを時期尚早に教えて子どもをいたずらに苦しめてはならない。それによって子どもが受ける自信の喪失は長く子どもに悪影響をあたえるであろう】と。難解な教材を与えられて、大半の子どもは訳の分からないまま四五分という、長い国語の授業時間を、苦痛と退屈と忍耐の中で過ごさなければならないのである。しかもそれは、明日もあさっても要求されるのである。そうした毎日の累積は、子どもを国語嫌いと自信喪失に追いやる以外のなにものでもない。

そんなに簡単なものであれば、頭を痛める必要はない

 斎藤メソッドによる第二の問題点は、言語指導法である。先ず問題なのは、「走れメロス」の実践報告の中の言語指導法である。氏は「邪知暴虐(じゃちほうぎやく)、稀代(きだい)、放免などという難しそうな言葉も出てくるが、文脈で十分意味を察する事が出来る」と言っている。小学校四年生の子どもにこの語意を文脈推定することが可能であろうか。放免はともかくとして、邪知暴虐とか稀代という言葉は中学段階、高校段階でも正確に推定することは難しく、それを小学校中学年段階で可能とする氏の見解は明らかに誤りである。
 もし仮に氏の言うように子どもが文章の前後から語意の推定をしたとしても、子どもひとり一人の推定した語意には、大きな個人的な差違がでてくる。その違いは放置したままで良いというのであろうか。もしそうだとしたら、言葉の意味は人間個人個人によって異なるということになり、言葉は社会的意味を失うことになる。加えて氏は、「分からない語句についても説明はしない」と言っている。子どもはいつどのようにして言葉の正しい意味を習得することが出来るのだろうか。文脈推定でコトバの正しい習得が出来るのであれば、国語辞典は不要である。
 氏は法学部出身であるから、訴状や準備書面で使用する言葉については、言語を峻別(しゅんべつ)する事の必要性を熟知しているはずである。告訴状と告発状の違いは、法律の専門家にとっては容易なことである。しかし、一般社会では往々にして同じものと考えられていて、混同されている例は珍しくない。原因は正しい語意を知らないからである。つまり、告訴と告発という正しい語意の習得が行われなかった結果によるものである。子ども個人の文脈推定に任せて、正しい語意の指導をしなければ、このような結果を招くのである。さらに、氏の国語指導の誤りはこれだけではない。国語指導のネックとなっている漢字の指導についても、「授業中に漢字の反復練習を徹底すれば学年配当湊字は身につくはずだ」と、いとも簡単に言っている。漢字指導がそんなに簡単なものであれば、日本の国語教師は漢字指導に頭を痛める必要はない。はずだというのは推量であって事実ではない。それができるというのであれば、氏はその事実を示して証明しなければならない。……はずだ等という主張は、学者として最も恥ずべき表現である。
 また、氏は三色ボールペン方式をいかにもイノベーティブなメソッドとして紹介しているが、このような指導の工夫は、国語指導の現場では枚挙に暇がないぼど報告されている。私は三〇年前から、(Red sentence & Blue words)と名付けた実践【疑問や意見のある文には赤い線を、分からない言葉には青い線を引かせる】を定式化し、左手に辞典、右手に鉛筆の国語授業とセットして言語力を育てる国語指導を実践してきた。このことは、拙著「自力読みの指導法」一光社)、『子どもが創る国語の授業』(あゆみ出版)に報告してある。
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「子どもと教育」(ルック)2005/5  教科書問題を考える

斎藤孝氏『理想の国語教科書』で国語力はどうなるか その2

音声化の科学を欠いた朗読・読み聞かせ

 斎藤氏の国語指導法の中核は、教師の朗読や読み聞かせや解説を中心活動として高度な名作、名文の持つ優れたエッセンスを子どもに理解させようとするものである。氏は何の抵抗もなく教師による朗読を疑うところのない学習活動として位置づけているが、書きことばを朗読や読み聞かせという話しことばに音声化することが、なぜ文章理解に有効なのか、その音声化の科学を知っておられるのだろうか。昔から朗読や読み聞かせは、親から子へ、教師から子へと家庭や学校の教育現場で積極的に取り入れられ、それが子どもの知的発達に極めて有効であることが定説となっており、氏もそうした朗読や読み聞かせの歴史が積み上げてきた体験的成果をもとに読み聞かせや朗読を推奨していると思われるが…。
 実は最新の大脳生理学は、我々が体験的に有効だと考えてきたことばの音声化がもたらす、言語理解の秘密を科学的に解き明かしている。そのメカニズムは、「文字言語が人間に理解されるには、目から入った文字がいったん音声記号に代えられた後、初めて理解される」ということである。即ち、視覚を通して大脳に入った言語はストレートに理解されるのではなく、音声記号に転換されて初めて理解されるということである。
 この事実はことばの音声化が言語理解のキーを握っているということを意味する。読み手の視覚を通して入ったことばの理解は、読み手の音声記号化の如何によって、その内容が左右されると言うことである。つまり、同じ文章を読んでも、各個人の脳の中でどのように音声化が行われたかによって、読みとられた形象はそれぞれに異なると言うことである。最も重要なことは、読み手がいかに筆者や文章の表現世界を正しく音声化することが出来るかどうかである。
 斎藤氏の朗読や読み聞かせは、こうした現代科学が明らかにした音声化の科学を踏まえたものだろうか否かである。なぜなら、斎藤メソッドでは教師の朗読や読み聞かせによって子どもの文章理解を達成しょうとするものであって、読み手である子どもによる音声化ではないからである。子どもは自分で音声化したのではなく、教師が理解して音声化した内容を聞いて理解しているに過ぎない。
 重要なことは、教師の文章解釈によって音声化された朗読や読み聞かせを子どもが理解するのではなく、ひとり一人の子どもが書きことばを音声化して文章を理解することである。そうした子どもひとり一人の音声化活動を、新しい読みづくりとして組織したのが、児童言語研究会や表現よみ総合法教育研究会で実践されている「表現よみ」である。
 表現よみは、文章の理解が書きことばの音声記号化によって達成されるという今日の大脳生理学の研究成果を踏まえて、より正しい読み取りを育てようとする音声解釈法(Oral intepretation)なのである。従って、その方法はひとり一人の子どもが音声化する事を基本とし、場面を音読する際、声の強弱や速さや抑揚等を様々に変えて音声化することによって、登場人物の心情や情景が果たしてどのようなものであったかを正しく読みとらせようとするものである。
 これに対して、斎藤メソッドでは、子どもが満足に読めもしない総ルビを打った文章を、教師の範読的朗読による読み聞かせや説明で理解させるというのであるから、子どもが読んだのではなく、子どもは教師の解釈した読みの世界をう呑みに受け入れただけであり、子ども自身の読みづくりにはならない。そればかりか、読み聞かせや説明をしてやる教師がいない場では、子どもは文章を読もうとしても、とりつくしまもない致命的な欠陥を持つ読みをしてしまうことになる。これでは、音声解釈の科学からほど遠く、子どもの読みの力を育てる指導法とはなり得ない。

言語理論のない「斎藤メソッド」

 斎藤氏は、本書の中で「優れた作品を子どもに与えたい」、「国語科を他の賭教科と区別して中心教科としたい」と言っているが、なぜ、子どもに与えられる作品が優れたものでなければならないのか、なぜ、国語科を他の緒教科とは異なる中心教科としなければならないのかについての論処には触れていない。ただ何となくそれが国語力や思考力を高めるのに有効であるという考え方に立つものであると思われるが、氏は、優れた作品が果たして、どのように子どもの国語力育てや成長発達に役立つものであるかを証明しなければ、優れた作品を子どもに与えることが良いことだということを主張することは出来ない。
 さらに氏の主張する国語教育論が正しいものであるならば、氏は次の二つの極めて注目すべき発言に納得のいく回答をしなければならない。一九〇四年にノーベル生理学賞を受賞した、イ・ペ・パブロフは、一九四九年、彼の条件反射の研究から導き出した第二信号系理論の中で、人間の能力発達に関して、ことばの重要性は認めつつも「ことばは何もしない」といっている。また、フランスの心理学者ピアジェも、一九七二年に日本を訪れた際に、TVインタビューの中で「人間の能力を発達させることに関して、文字を使うとか、数字を使うかなどということは殆ど無関係である」と言っている。両者の共通する指摘は、ことばは能力の発達に無関係だと言うことである。もしも、ことばが人間の能力発達に無関係であるとの指摘が正しいとするならば、名作や優れた文章を子どもに与えたいとする斎藤氏の主張とは明らかに矛盾する。氏は、このパブロフ、ピアジェの言語理論との矛盾をどう説明するのだろうか。その理論が解明できなければ、氏の国語教育論は根底としての言語理論の欠落した脆弱(ぜいじゃく)な国語教育論でしかあり得ず、国語教育に耐えられるものではない。

発達媒体観に立つ言語観を

 斎藤氏の理想の国語教科書の出版に当たって、国語教育学会はどんな反応を示したのだろう。九州から東京を中心とする国語教育学会の動向は詳しく知る由もないが、大変な国語指導の出現で、教育現場は戸惑いに揺れていると聞いている。しかし、私が心配しているのは、そうした教育現場の動揺ではなく、日本の国語教育学会の動向である。
 一九三四年、ビゴツキーがその著「思考と言語」の中で明らかにした「思想は言葉で表現されるのではなく、言葉によって遂行されるのである」といった一語である。伝達媒体観に立つ旧来の言語観では、言葉は自分の考えや感じたことを相手に伝えるコミュニケーションの道具と考えられていたが、今や言葉は人問の知的発達を促す中核的な使命を果たす道具としての存在であり」人間はことばを持ったが故に思考を蓄積し、感性を育てることができたのである。動物と人間の差は、ことばがあったかなかったかということである。日本の国語教育学会はこうした言語学のコペルニクス的転回にどう対応しようとしているのか、それへの動きは一向に見られない。
 斎藤氏の所論は、著者個人の一種独特の空想的、主観的国語教育観に基づくもので、教育学的根拠も見識もうかがい知ることは出来ない。氏は、「理想の教科書を広く世の中に浸透させていきたい」と言っているが、本書及び斎藤メソッドに見られる国語教育論は非科学のバーチャル国語教育論であり、一日も早く国語教育界から姿を消してもらいたい類のものである。願わくば、現場教師が氏の国語教育論のみならず、広く日本の国語教育界を覆っている観念的教育論に埋没せず、教育科学に支えられた確かな国語教育の創造と実践のために心血を注いでもらいたいものである。
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