2003年7月8日(火)午後1時だったそうです。9日(水)に通夜、10日(金)に葬儀が営まれました。通夜・葬儀とも、学校関係者や教え子が多数かけつけ、岩永先生の業績を象徴する様を呈していました。
 最後まで現場にこだわり続けた人でした。病気が発覚してからも、「倒れるまで授業を続けたい」と言われていました。

弔  辞

 九州地方の入梅が発表された去る6月6日、日向市の江川悦生さんから「岩永先生が延岡市の黒木病院に入院しました。癌はすでに脳に転移しているとのことで手術も出来ない状態です。」との電話をうけました。癌が脳に転移したと聞いた私は、これは猶予ならない由々しい状態だと判断し、翌6月10日、取るものも取り敢えず黒木病院に駆けつけました。午前10時過ぎに病院に着いた私は、不安に動転する心を抑えながら2階の病室のドアをあけました。頭痛のためか貴方は右手で自分の頭をなでながら目を閉じていました。「岩永さん、私です。分かりますか」と声をかけると、「あっ、平井先生」と閉じた目を半分開いて小さく微笑んで応えてくれました。しかし、その後は殆ど半眼を閉じたままの状態でした。「頭が痛いんですね」と私が問いかけると、「はい、癌が脳に転移して右側の半分が痛むのです」と答えて、絶えず右の側頭部を右手でなで回していました。「ここらが痛むのですか」と言って私が右頭をマッサージすると、「先生有り難う」と言って心地よさそうに目を閉じていました。
 しかし、病状は私が想像していたものよりずっと深刻なもので一刻を争う事態だと判断した私は、貴方との心の交流が出来る最後の機会を逃してはならないと思い、重要なことに絞って貴方に問いかけました。「先日、日向の先生方が尋ねて来たとき、みんなといろいろ話しましたか」ときくと、「いいえ、余り話しませんでした。」「他の先生方に何か伝えたいことはありませんか」「いいえ特にありません」貴方が今までに研究実践を積み重ねてきた記録はどこにありますか」「ダンボールの箱に整理して書斎に置いてあります」「分かった。奥さんに聞いて私が引き受けて私が健康であれば必ずこの実践を本にまとめるからね。」と言うと、頭の痛みを耐えていた苦しげな表情がかすかにゆるんで和らいだ微笑が一瞬口元に漂いました。これ以上貴方に語りかけることは最早貴方を苦しませるだけです。貴方と二度と繰り返すことのない最後の語らいは終わりました。言葉少なの短い時間でしたが、私には思い残す事のない満足のいく貴重な一瞬であった事を見定めた私は静かに病室を退出しました。
 病院を出た私は、癌発病以来貴方と度々出会って教育研究について語り合った宇目町のレストラン「うめりあ」まで引き返して昼食をとりました。いつも二人で決まって座った北川ダムを見渡す席に今は1人席を取り、新緑の緑を反映してヒスイのように光り輝く北川の美しい眺めを懐かしく見下ろしながら、再び会う事の出来ない貴方を偲んで独り寂しく乾杯をしました。かつて二度と生きて帰ることのない凶奴との戦いに陽関から出征していった中国の兵士達の永別の瞬間を歌った王維の辺塞詩が脳裏に浮かんできました。「君に勧む更に一杯の酒、陽関を出れば故人ならからん」永遠の別れに貴方と酌み交わしたかった一杯の酒へのかすかな未練が、ふっと私の脳裏をよぎりました。
 岩永さん、50有余年の長かったその努力と情熱に満ちた人生を今ゆっくりお休み下さい。貴方が賭けた教育研究への意志を必ず果たして貴方の功績に報いましょう。さらば安らかに。
 平成15年7月10日      九州児童言語研究会顧問  平井 英一

希有の人

九州児言研 江 川 悦 生
 七夕の翌日、岩永透さんが逝った。
「治療の手だてはいろいろあります。私は諦めていません。痛と向き合って生きていきます。」そう言って二年余り養生を続けてきたのであったが……。
 彼が一読総合法と出会ったのは三十年前、それは九州児言研の創立集会と時を同じくしている。創設呼びかけ人の平井英一氏が竹田小学校で画期的は「集団的自力読み」の授業を公開された直後、評判を耳にした岩永さんが授業参観を申し込んだことからであった。「どうして子供たちがこんなに活発に、しかも自分たちだけで国語の授業ができるのか。」、彼の驚きは以後、平井氏が出した集団主義教育実践ノート″によって理論的に支えられ、度々の竹田行脚がくりかえされたのである。
 そして、日向一読会において「学習集団づくりと一読総合法」「科学的言語観に基づく授業づくり」の理論学習を十数年にわたり提案し続けた彼は、授業をしてみせてほしいという仲間の要望に校長を説得し、その願いに応えたのであった。当時、宮崎の教育界としては異例のことであった。このエネルギーは児言研夏季アカデミーの授業発表という形で結実した。沖縄の手記から≠フ実践はこうして生まれたのである。
 私たちはいつの問にか彼のことを「九州児言研きっての若手理論家・実践家」と呼ぶようになっていた。
 集団主義教育と一読総合法の優位性を説く彼が、宮崎県生活指導協議会に席を置くようになったのは当然の成りゆきであった。そして、やがて、その卓越した理論と実践力を持つが故に責任者になることを請われたのも当然のことであったかもしれない。全国生活指導研究協議会宮崎大会の成功へ向けての彼の働きは、校内の誰よりも早く七時には登校して授業準備をしているという日頃の勤務ぶりから推して知るべしである。帰宅し食事を済ますと就寝し、家人が寝静まった深夜に理論学習をするという長年の生活様式がその間も続けられたという。
よだき・てげてげでいいが″と手間のかかること、面倒なことを避けたがる宮崎人には全く当てはまらない人、岩永透は希有の人であった。無念!

切手100枚

 一度、お見舞いに行こうと思って日向の江川先生に電話をしたのが7月8日でした。江川先生の返事は唐突でした。「午後1時、逝きました。」
 しまったと思いました。長崎の大森先生、末永先生から「見舞に行きます。」と聞いていながら、ちょうど組合の県大会で行けなかったのが2週間ほど前。
 10日、何とか葬儀には行こうと思い、唐津から延岡まで4時間半車をとばしました。着いたのは葬儀の時間ぎりぎりでした。斎場に入ると江川先生、西都市の日高先生を見つけました。平井先生をさがしましたが、弔辞のために別席におられたようで、その時は見つけられませんでした。
 校長、生徒の代表、平井先生から弔辞がありました。生徒代表の言葉は、岩永先生が現場で何をしておられたのか、如実に物語るものでした。「忘れ物をしたとき、人間だからね、次は忘れないようにね、と握手をしてくれました。」「国語なんか大嫌いだったのに、今では作文大好き、国語大好きになっています。」
 平井先生の弔辞は、きっぱりとした印象でした。思えば岩永先生の病気が発見されて以来、自分のこと以上に闘って来られたのが平井先生かも知れないと思いました。覚悟はできていたということでしょうか。今この場で感情まる出しの泣き言は要らなかったのだと思います。
 息子さんの話も心を打つものでした。教育研究や現場での実践に打ち込む父親を家族の目から見た話でした。
 葬儀の後、4人で食事に行きました。そこでも先輩3人、重苦しい雰囲気はありませんでした。しかし、「あいつは・・・・」と話される言葉は胸に響きました。「無理をしすぎる。生研の会長は引き受けるなと言ったんです。退潮気味の動員力を自分の力で取り戻そうとするに決まってる。」「学校大好きのあの性格だから、学校には7時に着いてたんです。管理職よりも早い。」「通夜は生徒の数に驚いた。生徒があれだけのことを岩永さんから受け取っていたというのは驚愕だ。」
 帰り道、岩永先生のいろんな姿が思い出されました。私が一般参加者として九州児言研に顔を出し始めた頃、すでに中心的存在だったのでしょう。平井先生の理論的な継承者などという話も聞きました。佐賀で大会を開く際、講演を頼んだこと。初歩的・基本的な話をと頼んでいたのに、私にはさっぱり理解できなかったこと。九州児言研で病気のお見舞いをしたら、お返しに何と、切手が100枚送られてきたこと。つまり、みんなの役に立つようにということですよね。
 食事のとき、「今後の九州児言研の人事は、大変だな。」という話がぽろり。私は少なくとも切手100枚を使用済にするまでは、事務局も逃げられんなぁと考えていました。(それまで、と言ったら怒られそうです。)岩永先生の代わりは誰にも務まりません。せめて100分の1でも役に立たねばと考えています。
2003.7.19  九州児言研事務局長  井上 正三